(バリ島によく行くわけ)


第2章 バリ島によく行くわけ

バリが好きだと書いてしまったら、どこか好きなのかという猫的発想で、思い入れを書いていくことになるが、それも又良しで、ジクジクと好きな所を書きたいのだが、ここはスラット、ムティアラコテッジのテラスが好きだったと軽くいきたい。 それも、プールサイドのルームNo.

A2のテラスが好きだった。 ここで、幾つかの話しが生まれるのだが、クタの夕日をラマヤナホテルのレストランから見るくらい、好きだった

  ムティアラコテッジは、30室位しかない小さなコテッジで、従業員は、男性7人・女性4人と女性マネージャ1人プラス犬という構成で運営されていた。(どこの家にも、一匹勝手に住み着いている。 但し、お金持ちの家は、餌をやってちゃんと飼っているらしい。)女性マネージャとは、一度も話したことはない。話すのは、サリー・ミキー(仮名)とマディーの三人と決まっていた。サリーは、この当時22才・ミキーも同い年で、マディー20才(確かこの位だったと思う)で、それぞれ若いスタッフだった。サリーは、コッテジの朝食係で、毎朝決まった料理を出す担当で、ミキーは、フロント担当・マディーは、客室係だった。サリーとミキーは幼友達だったがヒンズー教で家の階層が違い、ミキーの方がいい職位を貰えるような環境にあった。

 

ムティアラのプール

 宿泊客は必ずこのプールで泳ぐ。ここが見える部屋は全宿泊客を見る事が出来た。この当時は、塩素剤は入っておらず、あめんぼうが数匹浮かんでいたのが思い出される。

 

 この3人が、ムティアラコテッジの各現場スタッフの責任者であり、この関わりで、バリの神髄に触れたと言っても過言でないような気がする。(3人との関わりは、おいおいでてくる。)

初めてバリに来たとき、ガイドブックを読んだ程度の知識しか無かったのに、今では、ちょっと通の様なことを書けるようになったのも3人のおかげだ。3人には、本当に感謝したい。現在も、ミキーはサリジャヤコテッジのフロントで働いている。

私は、しがないサラリーマンをやっていた頃(現在も、大して変わっていない)、新井薬師にあるスナックによく、うさを晴らしに行っていた。 此の店の仕切(やくざではない)をやっていた山田(仮名)さん(築地場外の大棚の店主)が、「バリにホテルを建てるんだ」とよく言っていた。友人とお金を出し合って、建てる計画だったらしいが、結局は、挫折したらしい。 (バリで外国人は、土地を買えないとか、いろいろな問題があったらしい) 酔っぱらってくると、

 「ねえ、バリーで椰子の木一本いくらか解かる?!」と言って

 「いくらですか?」と聞くと

 「300円、たったの300円だよ!! 物価が安いんだ、老後は、バリーで過ごすなんて最高だね!!」とよく言っていた。

 ある時、「バリのどこがいいんですか?」と聞くと

 「キンタマーニ高原が綺麗だよ、それに治安がいい、昔、俺もこんな調子だからバーに入って、みんなに酒をおごってワーッと騒ぎすぎて、デンパサールの道ばたで、眼をさましたことがあるんだけど、財布があるんだよ。 信じられる?!」と言った。 (ヒンズー教徒は、人の物を取っては、いけないとの教えがあり、また話し合えば判るということで、暴力に訴えることは、ほとんどないが、イスラムは違うらしい。 ガイドブックには、バリ島は、ヒンズーの島で、約85%がヒンズー教徒だとよく書いてあるが、この間(’96・7)聞いたところ、70%位と言うことだった。 現在は、危ないところもある。) このときは、へーと思った程度で、大した興味は生まれなかった。 でも、バリの治安はいいと、記憶に残った。その時から2年位過ぎて、山田さんに孫が出来た。

 

 クタには物売りが沢山いる。写真はクタビーチで衣料品を売っている光景だが、彼女らも生活がかかっているので真剣だ。ビーチには、有名なオイルマッサージをやってくれるおばちゃん・マネキュア塗りの少女や髪結いのオネーさん等色々いるが、最初に値段を決めないと相場の5倍10倍平気で吹っ掛けてくるので注意した方がいい。

 

 

 「いやー、孫はいいね、ほんとにかわいい」が口癖になった。この時以来、バリの話しをしなくなった。 バリっていったい何だったのだろうかと、疑問が生まれた。 会社を辞めて、フリーで仕事をしている私は、仕事の切れ目に、長期休暇を取ることができるようになっていたため、バリに行ってみようという気になった。初めてなので、ツアーで行くことにし、月刊の海外旅行雑誌で、格安のバリ島ツアーを選択した。 このツアーにセットされていたのが、ムティアラコテッジだった。(現在の格安ツアーも、だいたい1泊15$前後のコテッジを使用しているようだ。)このツアーは、空港からの送迎と、半日のバリ島観光が含まれていて、その他は、全てオプションになっていて、 日程は、8泊(機内1泊)9日だった。ガイドブックに書いてある所を、探して行くというアプローチで、バリ島を歩き始めた。バリ島観光半日ツアーから始まり、デンパサールの博物館に行き、高い買い物をして4日目に体調を崩した。体が急にだるくなった。しかし、熱は無かった。トイレに行って、驚いたのは、白いう○こが出たことだった。

 何と、バリで白いう○こをした!!

一人で来ていた為、急に不安に襲われた。片言の英語しか出来ない私にとって、自由に行動できないことがどのくらいの不安に増幅されたかは、誰も経験したく世界だと思う。4日目は、部屋で寝ていた。食欲が殆どないのとだるさで、ひたすら寝ていた。毒草丸は、持ってきていたので、飲んだ。それと、念のために持ってきた、カロリーメイトを少々食べた。こんな時に想うのは、早く日本に帰りたいということであった。

 次の日に、多少回復してきたので、朝食をとりに食堂(日本風でなく、バリ風で、オープンなイメージ)に行くと、初老の日本人が朝食をとっていた。

「おはよう」と向こうから声をかけてきたので

 「おはようございます」と返事を返したら

 ’91年頃までビーチには柵があって、入るのに200Rp取られた。 でも、徴収する人がいない場合が多かったので、払っうことは滅多に無かった。 徴収官がいるとき、変な現地人が手を出して「千円」と言っていたのが気になった。 絶対に払った、日本人がいると思う。この頃に木が植えられた。

 

 「一緒にどうですか」と言われたので、相席した。

 「なんか、調子が良くなくって」と言うと

 「どうかしましたか」

 「イヤーちょっとだるくって、胃の具和いがよくないみたいなんです」と言うと

 なにやら取り出して「これを飲むと、すぐ直りますよ」と言って、インスタント味噌汁を出した。

 「日本人は、これをこれですよ」と言い、サリーにインドネシア語で何かを言った。

 「バリは、初めてですか?」

 「ええ、初めてです」

 「バリに来てから、どんな食事をしいますか?」

 「ナシゴーレンとミゴーレンをだいたい食べてます。 あとビールとアクア位ですか」と答えると  

 いきなり「白いう○こが出ませんでしたか?」と聞かれ、ドキッとした。 (ナシゴーレンは、インドネシア風チャーハン、ミゴーレンは、インドネシア風五目焼きそば)

 「ええ、出たのですが」と力強く返事した。

 「その白いのは、椰子油で、日本人で消化できない人がよくいるんですよ。 だいたい一週間もいると口の周りにぽとぽつが出来るんですが、だいたい椰子油のせいなのです。 食事を変えた方がいいですね。」と言われた。(この時以来、椰子油を使った料理は、一日一食以上食べないようにしている。)サリーが、熱湯を持ってきたので、インスタント味噌汁を飲んだ。 とりだてて、感激もしなかったが、なんか落ち着いた様な気がした。(このときの経験で、海外旅行するときは必ずインスタント味噌汁を持って行くようになった。)

 両替屋は、クタの商店が在るところなら大体在る。先日、テレビでお金をごまかす両替屋が多いと特集を組んでいたが、僕が行っていた頃は大丈夫だった。

 交換レートは、1日に変わるようで、午前と午後では違ったりする。いい交換レートの店を選ぶのがお勧めだが、僕はいつもベモコーナーのところの両替屋を使った。銀行のレートは、あまりよくなかった。

2〜30分ほど、バリに付いての話を聞いた。雨季は、傘なんて役に立たないほど強い雨が降るので、雨合羽が必要で、それが一週間ぐらい続く時があるということや、フルーツは雨季が

おいしいので是非、雨季も来た方がいいとか、バリの物の値段とお土産の話を聞いた。(バリの雨季は、10月から4月位の間)

「その土地の良さは、最低でも3度行かないと判らない。 通う内にだんだんその土地の良さが判ってくるから、ぜひまたバリにどうぞ」と初老の日本人は、言った。翌日からは、のんびりとプールサイドで過ごし、夜はテラスで眠くなるまで、ベランダに座ってジャックダニエルを飲んでいた。プラレタリュウムのような夜空と、近くから「カッコー」とトカゲの鳴き声が聞こえてくるのも、また趣があるというか、バリ風と言おうか何とも言えない世界があった。(このトカ

 

ゲは、人間に危害を加えない)日本に帰ってから半年位して、初老の日本人の話しを思い出した。

「最低でも3回行かないと良さが解からないんだっけなあ」と独り言のように呟いた。

 正月休みに、2回目のバリに行って、そしてはまってしまった

     バリ島によく行くわけ 終わり


 

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