(ギリトワンガンでの話)


第7章 ロンボック島ギリトワンガンの話

 

  最近、女性の話が多いいが、今回もそうなりそうな予感がする。

 バリ島の隣にロンボック島がある。まだ観光客は、そんなに多くはなく、インドネシアの田舎町の雰囲気が残っている。ここにクタロンボックというビーチがあるが、バリ島のクタの方が、僕は好きだ。ここに観光のポイントになるタンジュンアンビーチがある。インドネシア人らしき人達の団体が観光バスで来ているところを見ると、ロンボック島では、有数の観光地であることには、間違いないと思う。(バス停も店もなかった。 ’93年頃)

ギリトワンガンは、ロンボック島の左上に位置する小さい島で他にギリメノウ等がある。スンギギは、ロンボック島最大のリゾート地で大きなホテルが幾つかある。確か、4回目のバリ島観光のとき、たまには、違う所も行ってみたいと思い、地球の歩き方を読だ。クタロンボックなる文字が目に入った。

「ほービーチかあ」宿泊設備は、高床式のコテッジでまだ新しいと現地情報が書いてあった。 ここに行きたい!! と思った。

バリ島のムティアラコテッジから空港へいき、センパチ航空に乗って、ロンボック島に渡った。旅行社は、レギャンストリートにあるコモドオオトカゲの看板がある店を使用した。(今もあるかは、知らない)空港からは、タクシーでその旅行社の店に行って、クタロンボックいきのワンボックスを待った。乗ること、2時間ぐらいで、クタロンボックに着いた。新しい高床式のコッテジを探したが、見当たらず、地元の人に聞くと、到着した旅行社のオフィースが入っている所が地球の歩き方載っているコテッジであった。記事の書かれた日付を見ると、2年前になっており、2年の長さを感じた。

 

 センパチ航空は、プロペラ機。今はどうか知らない。

 初めて乗ったプロペラ機の騒音に胆を冷やした。風の影響かよくく分からないが、プロペラの回転が速くなったり遅くなたっりするように聞こえるからだ。わずか数十分だったけど、非常に長く感じた。一つよかった事は、日中に空からクタを見えた事だ。国際線の離発着(成田〜デンパサール間)は、通常夜間の為。

 

このコテッジのレストランは、屋根ありのオープンエアータイプで、壁が無い。インドネシアの風が吹き抜けていく。心地よい風だけでは、まだ枯れていない僕には、少々物足りない。タンジュンアンビーチを見て、3日目の朝ギリトワンガンに向けて出発した。

ギリトワンガンへは、船に乗り換えていかなくてはならない。船に乗り換えるのに桟橋が無いために、ひざ上まで海水につかってしまう。まだ、開発途上の為か、日本人の僕には、秘境の地に来たような感覚に包まれそうだった。ギリトワンガンの船着き場は、奇麗に掃除されていて、楽園の様な雰囲気があった。

まず、泊まるところを確保しようと、コテッジを捜した。 一泊朝食付8,000RPが相場みたいだった。(’93年頃) 少年が

「ルッキング フォアザ ルーム?」 と話しかけてきた

「イエス」と答えると

「こっちへ」と言われたので、一緒に部屋を見に行った 。部屋は、高床式のコテッジで電気は無く、ランプが備えてあった。当然に水道も無く、井戸から水瓶に水を入れてくれるスタイルで、そのカメの水でシャワーとトイレ後のお尻を洗う。飲み水は、アクアを飲むしかない。なかなかいいと思う人と、とてもじゃないがだめと思う人とに別れるところだ。とりあえず、ここに泊まろうと思い

「OK」と少年に言った。 荷物を置き、食事に出かけた。レストランは、2〜3個所あるらしく、少年は、***がいいと、進めてくれたのでその店で食事をした。食後、の運動で、ジャランジャランすると、意外に歩きでがあり、島を一周する気は、どこかに飛んでしまった。海が見えるコテッジもあるんだなと思いつつ、日本人女性の姿を見た。こんな所にも、いるよと思いつつ通り過ぎた。

 クタロンボックにあるのは、コテッジくらいだった。静かな村といっても、民家も無かったような気がする。

 コテッジのレストランでタンジュンアンビーチが綺麗だから是非見に行った方がいいと言われたので行ってみたが、コバルト色の綺麗なビーチにちがいなかったが、ビーチ以外何も無かった。来る時一緒に乗り合わせたドイツ人は、僕があまりのも英語が下手なので口を利いてくれなくなったので、余計退屈になった。

コテッジに戻る途中、少年に会った。一本道なので、会うのはしごくあたりまえの様な気もするが、少年が

「おいしかったか?」と聞くので

「まあまあ」と答えたが、何を食べたかは、覚えていない。

「毎晩、どこかのレストランで、ダンスができるよ」と教えてくれた。ダンスが、好きでもない私にとっては、ふーん!? 程度の事だった。

 夜は、スキンガードを吹きかけて、コテッジのテラスで、ジャックダニエルを飲みながら、星空を見た。たくさんある!! 数える気も無くなるぐらいあった。 夜空は、バリ島と同じ、深さがある。 違うのは、コーランの響きとトカゲの泣き声の違いがあるだけだった。ランプが灯油で、赤い光がロンボックのインドネシアさを強調していた。 どこかで、ダンスやっている音が聞こえてくるが、いってみようという気にはならなかった。ジャックの酔いが心地よく僕を包んだ。

朝、起きるとコテッジのボーイがバナナパンケーキとコピーを持ってきた。サンキュウと言って受け取り、コピーの香りを楽しみながら、たばこに火をつけた。食後は、ジャランジャランに決まっている。今度は、逆周りで歩いた。海沿いに5分位歩くと、コテッジの集落は消え、現地系の住宅らしき物が見え、牛が数頭道脇に繋がれていた。テレビで見る牛と違い、実物には違和感がある。側をとうり過ぎるのが恐かった。また、牛の糞が散らばっており、それに群がるハエがうなりを立てて飛びまわっている。都会人の僕には、異様な状況に感じた。テレビで見た、恐怖映画の1シーンを作った作家もこんな体験をもとに書いたに違いないなと実感した。

昼は、レストランで食事をした。何を食べたかは、覚えていないが、インドネシアで食べる食事だったと思う。食後は、スノーケリングをした。

 

ギリトワンガンの船着き場

 写真の船でここまで来た。約20分位だったと思う。

 ギリトワンガンの道路は、綺麗に掃除されている。メインの通りには、牛の糞は落ちていなかった。コーランが鳴り響いていたのでイスラム教徒中心と思われる。シュノーケリングしたところ、水深5M位のところからテーブル珊瑚が群生していた。

 

ギリィトワンガンは、テーブル珊瑚に囲まれていると「地球を歩く」に書いてあったので、是非見たいという欲求に答える為だった。確かに、群生していたが、テーブル珊瑚に触れるほど近づいたわけではなかったので、青くしか見えなかった。現在は、ダイビングも結構やっているので、テーブル珊瑚がどんなもんかは判るが、その時は、何の感動もなかった。ビーチは狭いので、日本の湘南海岸に近い密度があったが、さわやかな風が、南の島を感じさせたのが、救いだった。

夕食はレストランでビールと魚のフライその他を注文したが、ウエイターの対応が良くなかった。あいつは、チャイニーズだという声が風に乗ってかすかに聞こえた。先日のスハルト暴動の時(’98年5月)、チャイニーズがずいぶん襲われたとの、報道があったが、インドネシアンの僻みがずいぶん昔からあったと確信させられる事象だった。この頃の私は、真黒に日焼けをしたデブだったので、シンガポールから来たチャイニーズに間違えられる事もあった。もし、暴動の時、ジャカルタにいたら、悲惨な経験をしたかもしれない。アーメン!!

食後、日本人女性の事が気になり、彼女のいたコテッジの方へジャランジャランした。

「あれ、男いるじゃん」と小声を上げたが、誰にも聞こえる空間ではなかった。

「こんな、所に一人で来るのもおかしいな」と呟き四郎しながら、自分のコテッジに戻った。ジャックを飲みながら、何も無いところに、何があるんだろう? と自問自答しながら、深い星空の中に包まれていった。そうだ、スンギギに行こうと思い立った。

翌朝、10時出発の船でスンギギ行くことにした。旅行社のカウンタでチケットを購入し、船着き場で船を待った。ここに、日本人女性とオーストライアンの男性が、二人でやってきた。

 

泊まった高床式コテッジ

 海が見えるコテッジもあるし、今にも壊れそうなコテッジもある。宿泊する人は見て回った方がいいと思う。

 このコテッジには2つベットがあり、蚊帳が張れるようになっていた。床の板には隙間が空いており、お金を落としたら下に落ちてしまった。 奥の方にシャワーROOM(ROOMと言えるレベルではないが)とトイレ(手でお尻を拭くタイプ)があった。

 

 

「昨日は、よかったね」と男が

 「とても」と女性が

 「また、会えるといいね」

 「私もそう思うわ」と女性がいった。

 「トイレに行ってくる」と行って、女性がその場を離れた。その女性は、大柄で、そんなに美形ではなかったが、ぶすと言い切るほどでもなかった。

 「あの日本人どうしたんだ」と他のオーストラリアンがその男に話しかけてきた。

 「昨日の夕方、英語を教えて下さい、と話しかけられてね」

「ほんとか? いい思いして」と話しかけた男が言った。トイレから戻った日本人女性は、他のオーストラリアンの存在を感じたらしく、会話が途切れ途切れになった。 船に乗り込んでも、熱い雰囲気は、戻らなかった。船の中を見回すと、中年女性(ヨーロッパ系)に買われた、18前後のインドネシアンが、一生懸命尽くしている姿が目に付いた。船から、車に乗り換えた時に、どこから来たのかわからない他の日本人女性が、大柄な日本人女性に話しかけてきた。

「いつ来たの」

「おとといきたの」と日本語の会話が始まった。この時点で、いい思いした、オーストラリアンは、見知らぬ他人になっていた。 40分ぐらい走って、スンギギに着いた。スンギギで降りたのは、僕と、中年女性(ヨーロッパ系)の二人だった。この、中年女性とは、口も利かないままに、別の方向に歩き出した。

 

 ギリトワンガンでの話 終わり


 戻る